夫Bさんと妻はダウン症のお子さんを愛してやまない。お子さんの好きなことに付き合って自分の趣味も変えてしまうほど。積極的に愛おしく子育て中だ。Bさんが話しはじめた。「子が産まれた当時の大きな敵は『不安』だった・・・」
目次 最初の記事を読む
3. なるほど、自分は今この段階にいるんだ!
4. 初めてほっとした 出来ることをやって行こう
5. 自分たちで動くことで、次の情報が入るようになった

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3.なるほど、自分は今この段階にいるんだ!
通勤中にとあるブログを見た時だった。「でっかい坊さんの心のお寺」というサイトの「ダウン症の子が生まれた」という相談に対して応える記事に、受け容れる11プロセスが書かれていた。
1精神的打撃と麻痺状態、2信じない・否認、3パニック・どうしていいかわからない、という状況から、4、5、・・・、9諦め・受容、10希望・ユーモアと続き、11新しいアイデンティティの発見に至るという。(サイトから引用させて頂きました)
なるほど、今、自分がいるのはこの段階かな。気持ちが整理できた。受けとめ切れていなかった気持ちがひと段落した。精神的にきつかったのが続いていたが、この記事は解りやすく支えになった。自分がどこに居るのか解ってありがたかった。
9月末に生まれ、ダウン症が確定し、10月末退院、妻の精神状態もおちついたころ、会社から昇格試験の案内が来た。今、そんな状況じゃない、断ろうと思った。「あなただけの受験じゃないのよ。この子も含めて、私たち家族が成長する機会なんだから、受けなさい」妻に諭され、12月初め昇格試験を受け、その直後、育休に入った。
子どもが退院後も妻はつききりで看ている。子は酸素吸入装置つけてお出かけも出来ない。育休に入るとすぐ迎えに行き、子供に酸素ボンベをつけたまま飛行機で帰京した。その後は、家の中で外界との接点が何もない、3人だけの生活となった。

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4.初めてほっとした 出来ることをやって行こう
1月中旬に埼玉県の県立小児医療センター ダウン症専門の外来(DK外来、ダウン症候群総合支援外来)へ、宮崎の病院から紹介状もらって行った時だった。
診察を待つ間、ダウン症の小学生や中学生がいて、走ったりおしゃべりしたりしていた。
ああ、大丈夫なんだ、こうなっていくんだ、と思えた。
それまでは、家の中でこの子しか見ていない。かかりつけ病院の小児科では健常児しか見ていない。ここでは同じような状況のお子さんを見たり、お話を聞いたりすることができた。安心感は大きく、大丈夫かもしれないと思えた。
自分の子も走ったり話したりするだろう。そこから受け容れが進んだ。
悩んだってしょうがない、まず目の前の子育て。出来ることをやって行こう。
DK外来で、食事の仕方、社会福祉の話、ダウン症の子供たちの特徴、身体的にはこういう特徴があるんだ、という授業を専門の先生から受け、地域別のグループワークで連絡先や情報交換した。似た境遇の家族と話が出来た、互いに支え合う、よりどころとなった。

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5.自分たちで動くことで、次の情報が入るようになった
この頃には、やっと次のことにフォーカスできるようになったので、進めやすくなった。
社会福祉的な基礎的なことを知ったので、徐々に調べていく。例えば療育サービスを知ったら、いつ頃受けるのが良いか、療育手帳の申請もいつ頃が良いか、自治体のHPを調べて障 害福祉課に電話相談し、次に何をするのかが分かっていく。
自分たちで調べたりママ友から情報仕入れたり。例えば、ダウン症児を育てる親の会が市内であるのを知って見学に行った。色んな年代の子がいた。そこで、療育は1歳からがよい とか、情報を聞くことができた。
各行政によって担うサービスが異なるので、一つの行政サイトで全てが分るわけではない。
療育では、障害に合わせたマッサージの仕方や食事のさせ方、その子の特徴に合わせた指導を専門家から話を聞く。ダウン症児の特徴として、筋肉が軟らかいため、外反偏平足や外反母趾になりやすい。正しい身体の動かし方を知らずに成長してしまうと、疲れやすい身体となり、生活の質が下がってしまう。長期的な目線も含め、それらを防ぐために様々なマッサージを含めた運動療育が必要と聞いて、マッサージや運動を1歳くらいから始めた。
聞けば様々な情報が入ってくるのだ。
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6.調べられていない人たちに情報提供したい
参考リンク
1. でっかい坊さんの心のお寺 ダウン症の子が生まれた
2. 書家 金澤翔子さん https://k-shoko.org/
3. 療育センター例:埼玉県地域療育センター
文/写真 らくゆく編集部