筋ジストロフィーの画家 山下重人

序章

山下さんから届いた言葉を読んでいるうちに、私は思わず胸が熱くなり、涙がこぼれそうになりました。一瞬で目を奪われる作品の素晴らしさはもちろんのこと、その奥にある山下さんの生き方、そして紡がれる言葉の一つひとつに、理屈抜きで心を揺さぶられたのです。

注目してきた可能性アートプロジェクト。今回は選出作品の作者であり、宮城県仙台市在住の画家・詩人、山下重人(やました・しげと)さんに、メールによる書面形式にてじっくりとお話を伺いました。余すことなく記事にまとめました。
ぜひ最後までご覧ください。

黒い帽子と眼鏡を着用し、リクライニングの車いすで屋外で過ごす山下重人

Q1 山下さんのこれまでの歩みについて教えてください。

はじめまして。宮城県仙台市で暮らしております、山下重人と申します。

生まれは九州の宮崎で、その後、愛媛、徳島と移り、いまは仙台に住んでいます。3歳のときに筋ジストロフィーという、少しずつ体の力が失われていく病気と診断されました。小学3年生から車椅子の生活になり、30歳のときには声を失って、現在は人工呼吸器を使いながら、妻の介護を受けて在宅で暮らしています。

平日はIT企業で在宅勤務をする会社員でもあり、仕事を終えた後や休みの日に、絵を描き、詩を書いています。

わたしが独自の画風で絵を描きはじめたのは、14歳のときでした。当時わたしは、四国で唯一の筋ジストロフィー専門病棟をもつ国立療養所徳島病院(現とくしま医療センター西病院)で暮らしていました。そこには、絵を描く人、詩を書く人、音楽を奏でる人、若く才能を秘めた仲間たちがたくさんいました。

手が思うように動かなくても、何か月もかけて一枚の絵を仕上げる先輩たちの姿を、わたしは間近で見てきました。その作品には、努力の跡そのものがにじみ出ていて、確かに「世界にひとつだけの風景」が宿っていました。そういう仲間たちの姿が、わたしの創作の原点です。

20歳の頃に描いた「シーガイア」というアクリル画で、障害者自立読売絵画展の寬仁親王杯という賞をいただきました。

これが、わたしの人生を大きく変えてくれた一枚です。

病気を悔しがるだけではなく、そこから生まれたものは、多くの人が経験できない貴重なものなのかもしれない。そう考え方を変えていく入口になりました。

じつは、わたしの表現は、音楽から絵画へ、そして絵画から詩へと流れてきました。理由は単純で、「病気に合わせて表現している」からです。音楽をする体力がなくなってきたから絵を描き、手の動きに負担を感じるようになって詩を書く。それでも、絵を描くことだけは、ずっと続けてきました。

そして2021年、40代の終わりに、京都芸術大学の芸術教養学科、通信教育課程に入学し、芸術について学び直しました。長いあいだ、ただ好きで描いてきたものを、歴史や理論のなかで捉え直せたことは、わたしにとって大きな開放感でした。

学ぶことに、年齢も、体の状態も、関係ない。そのことを知れたことが、なによりの収穫だったように思います。

太陽や海、鍵盤や眼が鮮やかな色彩で描かれたアクリル画「シーガイア」

▲ 山下さんの人生を大きく変えるきっかけとなった作品「シーガイア」


Q2 山下さんにとっての「絵を描くこと」 はどのような存在ですか?

わたしにとって絵を描くことは、「生きた証を残すこと」です。

以前、「なぜ描くのか」という問いに、わたしは15個の理由を詩の中で並べたことがあります。「足が不自由だから」「絵筆を持つくらいしか握力が残っていないから」「友人が毎年、絵だけを遺して別れていくから」……。けれど、理由をいくつ並べても、それだけでは足りませんでした。

最後にどうしても、理由を超えた一行が必要だったのです。

わたしたちは、描くことを宿命とされたのだ、と。

徳島病院で出会った仲間の多くは、もうこの世にいません。彼らは作品だけを遺して、先に旅立っていきました。「自分の果たせなかったことを、君に成し遂げてほしい」と託してくれた先輩もいました。ですから、わたしにとって絵を描くいちばんの原動力は、その仲間たちとの約束を果たすことなのだと思っています。

そしてもうひとつ、子どもの頃から、わたしは「絵を描くことで、みんなに元気を届けたい」と思ってきました。けれど振り返ってみると、いちばん元気をもらっていたのは、ほかでもないわたし自身でした。

続けるうえでの苦労は、やはり体のことです。いま、自由に動かせるのは、わずかな右手の指先だけです。その手の位置が数ミリずれただけで、もうペンを動かせなくなってしまいます。外出できるのは年に数回ほどで、ほぼ毎日24時間をベッドの上で過ごしています。仕事を終えたあとの限られた体力で筆をとるのは、決して楽なことではありません。

それでも、わたし自身は、子どもの頃から「病とは闘いたくない」と思ってきました。

闘うのではなく、うまく付き合っていく。そう決めたとき、病はわたしから何かを奪うだけのものではなく、わたしにしか描けない風景を授けてくれるものに変わっていきました。


Q3 どのような方法やアイデアで作品を描かれているのですか?こだわりの点も教えてください。

はじめの頃は、キャンバスにアクリル絵の具で描いていました。握る力が弱いので、硬い筆ではなく面相筆を使ったり、体の進行に合わせて工夫してきました。いま頼りになるのは、わずかに動く三本の指です。

2001年からは、パソコンを使ったCG、デジタルでの制作が中心になりました。CGに移ったのにも理由があります。体への負担が少なく、色を何層にも細かく重ねられて、何度でもやり直せるからです。

そしてなにより、わたしが使っているAppleのパソコンには、重度障害のある人のためのアクセシビリティ機能が、昔から標準で備わっていました。わたしのような者でも、指先のわずかな動きだけで絵を描き続けられる。Wacomの電子ペン(タブレット)などの道具に助けられて、表現の世界は大きく広がりました。

アイデアの源泉は、夜空です。星や月、その光。外の景色をいつでも見られる人への、ほんの少しの憧れのようなものが、わたしの絵のなかの空をつくっているのだと思います。

ベッドの上から、わたしは美しい空を想像しています。だからわたしは、目に見えたものをそのまま描くのではなく、自分だけの、世界にひとつの風景を描こうとしてきました。

こだわっているのは、色の鮮やかさと、細やかさです。徳島の仲間たちの絵がそうであったように、「時間をかけて描いた努力の跡」が、絵からにじみ出てくることを大切にしています。

五年ほど前、わたしの作風は大きく変わりました。新型コロナの流行で、世界中の人の暮らしが一変したときです。つらい思いをしている人に、少しでも元気を届けたい。そう思って、それまでの絵よりも、具体的なモチーフを多く取り入れた幻想的な世界を描くようになりました。

苦しい時代だからこそ、見た人の心に明かりが灯るような絵を。そんな思いで、いまも描いています。

(つづく)

次回は後編。「特にお気に入りの作品について」や「プロジェクトへの参加と「夢」の実現について」などをお届けします。 お楽しみに。 

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